【吉松~都城間61.6km 大正2年10月8日全通】
吉都線は、吉松駅から小林駅を経由して都城駅に至る61.6kmの路線である。
最初は、宮崎線の名称で建設が進められ,大正1年に吉松~小林町(現在の小林)間が開通し、大正2年までに現在の吉都線(吉松~都城間)が全通した。
大正12年の日豊本線全通により、この一部となっていたが、昭和7年の日豊本線のルート変更により、路線名を吉都線に改称し、現在に至る。
【吉松~都城間61.6km 大正2年10月8日全通】
吉都線は、吉松駅から小林駅を経由して都城駅に至る61.6kmの路線である。
最初は、宮崎線の名称で建設が進められ,大正1年に吉松~小林町(現在の小林)間が開通し、大正2年までに現在の吉都線(吉松~都城間)が全通した。
大正12年の日豊本線全通により、この一部となっていたが、昭和7年の日豊本線のルート変更により、路線名を吉都線に改称し、現在に至る。
【鹿児島~門司港間398.5km 明治42年11月21日全通】
(うち,八代~川内間116.9kmは、平成16年3月13日から,肥薩おれんじ鉄道線)
鹿児島本線は、鹿児島駅から川内駅・出水駅・熊本駅・博多駅等を経由して,門司港駅に至る398.5kmの九州の大動脈となる路線である。
このうち,八代~鹿児島間については、国防上の理由から,山間部の人吉・吉松経由で建設が進められ,明治42年に鹿児島本線が全通となり,現在の肥薩線が鹿児島本線の一部となっていた。
その後,昭和2年に湯浦~水俣間が開通し、海岸線の八代~川内間(当時の肥薩線)が全通したことにより、八代~川内~鹿児島間が鹿児島本線に編入され、現在に至る。
【鹿児島~小倉間462.6km 大正12年12月15日全通】
日豊本線は、鹿児島駅から宮崎駅・大分駅を経由して,小倉駅に至る462.2kmの東九州を縦断する九州一長い鉄道路線である。
明治28年の小倉~行事(現在の行橋)間が開通し、大正12年までに小倉~吉松間が日豊本線として全通した。
その後,昭和7年に都城~隼人間が全通したことにより、小倉~都城~鹿児島間が日豊本線となり,都城~吉松間は吉都線と改称し、現在に至る。
【西鹿児島(現鹿児島中央)~枕崎間87.9km 昭和38年10月31日全通】
指宿枕崎線は、鹿児島中央駅から錦江湾沿いに薩摩半島東岸を南下し、指宿駅を経由して,枕崎駅に至る87.9kmの路線である。
最初は、指宿線の名称で建設が進められ,昭和5年に西鹿児島~五位野間が開通し、昭和11年までに西鹿児島~山川間が開通した。
その後,昭和38年西頴娃~枕崎間の開通により、西鹿児島~枕崎間が全通となり,路線名を指宿枕崎線に改称し、現在に至る。
【隼人~八代間124.2km 明治42年11月21日全通】
肥薩線は、隼人駅から吉松駅・人吉駅を経由して,八代駅に至る124.2kmの鹿児島県と熊本県を結ぶ路線である。
明治42年人吉~吉松間の開通により、鹿児島本線門司~鹿児島間の一部となっていたが、昭和2年に川内経由の海岸ルートが開通したことにより、肥薩線と改称され、また,昭和7年に隼人~鹿児島間が日豊本線に編入され、八代~人吉~隼人間が現在の肥薩線となった。